今城 良瑞(いましろ りょうずい)

 昭和46年、大阪市に生まれる。高野山大学密教学科を卒業し、高野山専修学院で修行。真言密教の僧侶となる。
 さまざまな宗派の僧侶とともに、一般社団法人メッターを運営し、保育、児童養護(里親支援)で子どもたちの成長に関わっている。保護司(法務省)でもある。
 著書『ボクらの仏教』(PHP研究所)、『社会貢献する仏教者たち ―ツナガリ社会の回復に向けて―』共著(臨床仏教業書)

三句の法門(大日経)

「菩提心を因とし、悲を根とし、方便を究竟とす」

最高の真実の智慧は、悟りの心が原因であり、限りない悲が根本であり、方便活動が究極である。

如実知自心(大日経)

「いかんが菩提とならば、いわく実の如く自心を知るなり」

悟りとは何かといえば、とりもなおさずありのままに自らの心を知ることである。

百字偈(理趣経)

菩薩勝慧者 乃至盡生死 恒作衆生利 而不趣涅槃 般若及方便 智度悉加持 諸法及諸有 一切皆清浄 欲等調世間 令得浄除故 有頂及悪趣 調伏盡諸有 如蓮體本染 不為垢所染 諸欲性亦然 不染利群生 大欲得清浄 大安楽富饒 三界得自在 能作堅固利

 真言行者は、つねに衆生の利をはかり、彼らを安楽にしようと精進する。その理由は何かといえば、勝れた知恵を具えた菩薩である真言行者は、金剛薩埵の悟りの境地にあって、迷える衆生が一人でも現実世界に残されている限り、彼らをそこから救い出そうと、つねに力を尽くし、自身は悟りの世界に留まることはない。

自分とは何か

 ふだん「自分だ」と感じているそれは、実は本当の自分ではない。だからといって、旅に出て探せば、どこかにいる本当の自分が見つかるかといえば、それでは見つからない。
 よく「やりたいことをやれ」というが、本当の自分が望むこととは何か。実は、それも分かっていないのではないだろうか。
 ただ自分の欲望のままに、あれがしたい、これが欲しいと追い求めるのであれば、野生の動物の姿と変わりない。羊は、性と食への欲望のみで生きているが、人間の中にも、そういう者がいる。
 そんなことで、果たして人は満足なのだろうか。自分とは何で、本当に自分の望むものは何なのだろうか。

確かな繋がりを感じる(大我大欲)

 この大宇宙と自分とが一体であるということ。全体が一つであり、個であるそれぞれが夫々であり、一つが全体であるという繋がり。これを頭で理解するのではなく、感覚としてそれに染まっている状態になったとき、本当の自分がそこにいる。
 そして、この状態で湧き起こる「やりたいこと」こそ、「本当にやりたいこと」である。

確かな繋がりから生まれるもの

 確かな繋がりを感じれば、自ずと繋がりへの歓びや感謝が生まれる。もし繋がりへの感謝をかたちにするなら、先祖供養をすることもあるだろう。一即一切であり、自分と他者との分別がなくなれば、他者の苦しみが我がことのように感じられ、それが息災への祈りとなることもあるだろう。
 先祖供養や加持祈祷だけでなく、社会に出て、具体的に人々の困難を救済しようとするのも、なんの不思議でもない。それは至極当然の行いだ。

慈悲・菩薩行・衆生済度

 真言密教では、三句の法門に書かれている通り、方便が究極である。人々を救済することに日々努力することが当然である。また悟りの状態から見れば、救済は自分自身が「やりたいこと」になる。決して、やらなければならない義務として押し付けられているのではないのだ。
 このことを表すのに「慈悲」や「菩薩行」といった仏教用語があるが、別段、このような小難しい言葉を使わなくてもよい。「本当にやりたいこと」と言えばよいのだ。

一般社団法人メッター

 まだ若い頃の話し。「人々を救済する活動をしなければ」と頭で理解しているものの、具体的にはどこで何をすればよいのか、自分の活動がまだ不安定だった頃があった。
 その頃にSNSで「言えない心の傷」というコミュニティに出会った。虐待、DV、いじめなどの被害にあったという人が3万人近く集まった。来る日も来る日も書き込まれる「死にたい」「消えたい」という言葉は、衝撃であった。
 このコミュニティでの経験から、私が取り組むべき社会問題の中で、「虐待」という大きなテーマを得ることとなった。
 そして、その具体的な取り組みとして、一般社団法人メッター設立へと繋がっていくのである。

メッターはパーリ語で慈悲を意味する

 法人としてのメッターは、さまざな宗派の僧侶が集まってできている。宗派が異なれば、それぞれの考え方も異なる。だが異なることは異なるままに、衆生済度に対して協働することは可能だ。皆それぞれの想いや考えの中でメッターで活動すればそれでよいのだ。統一した思想など必要ない。多様性を認め、その能力をいかんなく発揮してもらうことの方がよほど重要だ。
 私が何を考え、何をしようとするのか、その考え方や思想は、当然ながら真言密教が根底にある。真言密教が分かれば私のしていることは理解できるし、そうでなければ理解できない。ただそれだけのことである。
 もし真言密教が分からないと言うのであれば、「メッターは慈悲を意味する」との共通認識さえあれば、メッターは上手くいく。

美味しいものを食べる

美味しいものを食べるために努力する人がいる。
 たとえば、しっかりと働きお金を稼ぎ、評判のレストランを見つけ出すことに一生懸命な人。別の方法もある。何を食べても美味しいと感じる状態に自分を持っていく方法だ。どちらも、美味しいものを食べることに違いはない。
 片方は、自分以外の外的な要因、つまり食べ物によって、美味しいか美味しくないかが左右される方法。もう片方は、食べ物に左右されるのではなく、自分自身の内面によって美味しく感じる方法だと言える。
 君は、どちらの方法を目指すか。

師、友との出会い

 よき師を探すところから、すでに修行は始まっている。本当に即身成仏を目指すなら、自分の足で師を探し出し、頭を下げ、頼み込んで弟子入りするくらい当たり前。インターネットでお気軽にお問い合わせ!は、偽物しかいないと思ってよい。
 また志を同じくする友との出会いも貴重だ。師であれ、友であれ、なかなか出会えないが、本気で仏教を、特に真言密教に取り組みたいのであれば、最後まで妥協せず、諦めず、探し続けることが必要だ。旅に出ても自分は見つからないが、師や友に出会うことはある。
 私は、人に恵まれた。だからこそ、その有り難みがよく分かる。君にも出会いがあることを、心から祈る。