大宇宙に生きる

《大日如来》
2500年程前に、菩提樹の下で釈尊が悟りをひらかれ、それをお説きになられたのが仏教の始まりですが、真言宗は仏教の中でも特に密教と呼ばれ、釈尊ではなく大日如来が教えの主となります。大日如来は、時間と空間を超えた大宇宙を一つの生命ととらえ仏格化された仏で、地水火風空と識の六つの要素(六大)で成り立っています。六大は、互いに障碍することなく、結びついています。そして人間も同じく、六大で成り立っています。大日如来には、身(身体的な働き)と口(言語的な働き)と意(こころの働き)との三つの活動があり、それを三密と言います。そして人間には、身口意の三つの業があります。 この三密と三業が一体化(瑜伽)し、人間の身口意も三密そのものであると直観的に理解した時、人間は大日如来(大宇宙)と等しいということをも実感できます。 大宇宙と、自分自身の中にある小宇宙とが同じであると直観したとき、すべてに繋がりを感じ、あらゆるものが融け合い、そして満たされた心で生きていくことができるようになります。

 

《加持感応》
大宇宙のあらゆる存在や生きとし生けるものは、相互に加持感応している関係で成り立っています。 加持感応は、通信機器の関係に似ています。通信を送信する側の周波数に受信する側が合わせられれば、通信を見聞きすることができます。送信する側が「加」、受信する側が「持」で、両方の働きが一致している状態を「感応」と云います。通信は、一方的ではなく、双方向で行えます。 貴方も私も、彼も彼女も、あれもこれも、迷いも覚りも、互いに加持感応しているのが大宇宙の姿です。 帝釈天の宮殿には網がかけられていて、その網の結び目にはそれぞれ宝珠があり、一つの宝珠に全ての宝珠が映り込んでいて、互いに写しあい光あう姿は得も言われぬ美しさだそうです。 大宇宙も帝釈天の網のように一つと全てとが繋がりあっています。それと同じように大宇宙とこの身体とが、同一であると実感するということは、すべての物事と繋がりあっていることを実感することでもあります。

 

《加持祈祷》
仏教にはさまざまな宗派があり、それぞれの宗派において覚りを得て仏となる方法が示されています。そして、その方法に従えば、きっと成仏することができるでしょう。 しかしながら、覚りを得て成仏したとしても、覚りの内容である大宇宙の霊力(大宇宙のエネルギー、活動、働き)によって、すべての存在の悩みを、物質的にも精神的にも救うよう祈り、成就することができるのは、真言密教の加持祈祷だけです。 密教の行者が身口意の三密の行を修するとき、大宇宙と一体となることで、人々をあらゆる苦悩から物質的にも精神的にも救うことができます。三密瑜伽の秘法をもって加持感応すれば、大宇宙の隅々、無限の彼方にまでその力を及ぼすことができ、たとえ遠く離れた地にも、霊験を生じさせることができます。 世界中におこる災害や争いについても、或いは個々の人々に起こる問題や不安についても、そこまで行って祈るではなく、この地に於いて祈ることが可能です。 そして、その効験は必ず因縁を通して現れてきます。因縁を無視してまで現れてくることはありません。 病が治る、福が来るといった加持祈祷による現世利益は劣った仏教であり、覚りを得たり成仏したりすることが優れた仏教であるとよく聞くところでありますが、密教の眼で見れば、どちらにも勝劣はありません。二項対立を離れて分別がなくなり、すべては仏の掌のうち、曼荼羅の中のできごとになります。

 

《何のために真言密教の教えがあるのか》
大乗仏教において、仏になろうと精進する者の心のありようにてついて「上求菩提 下化衆生」という言葉で説明されることがあります。 上を向いては覚りを求め、それと同時に下に向かって苦しむ人々を救済する行為に全力するという意味です。 また、大乗仏教では一般的に、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六波羅蜜を実践することで、誰でも成仏することができると説いています。 しかし、真言密教では、大宇宙(大日如来)と小宇宙(真言行者)が本質的に同じものであると直観することで即身成仏するための瞑想を重視し、六波羅蜜の行で成仏するとは説いていません。 六波羅蜜の行で、確かに誰もが成仏できるのですが、それは今生においてであるとは限りません。来世にまで持ち越すこともありますが、真言密教では、この身体このままに即座に成仏することが可能です。 これらの菩提を求めることと人々を救済することがセットであること、密教は三密瑜伽ですぐさま成仏できること、この二つの要素を理解したうえで、次に『大日経』の住心品にある「三句の法門」と言われる教えに話しを進めたい。

 

《三句の法門》
執金剛秘密主が大日如来(毘盧遮那仏)に、仏の智恵とは何かを質問した。 「菩提心を因とし、 大悲を根とし、 方便を究竟とす」 これが、その質問に対する大日如来の答えで、『大日経』の住心品に説かれる「三句の法門」とはこのことを指します。 「仏の智恵というものは、仏と衆生が一体となっている本来のありかたが基盤となり、衆生済度に向かう悲が根本となり、それが社会的な実践活動として実を結ぶことが究極の目標となっている」(『密教』松長有慶著/岩波新書) 『大日経』においては、菩提心と云う場合、通常のように悟りを求める心というより、仏の悟りと衆生の心を融合した、仏と人間が一体化してある状態とみるほうが本来の意味に近いそうです。真言密教の場合、即時に成仏するから、発心してから成仏するまでの過程ではなく、発心し行に入れば即時に大宇宙目線になるのです。すでに仏となった目線、大宇宙目線において話しが進んでいく方が、密教的には自然であると云えるでしょう。 そして、その大宇宙目線で見れば、悟りもまた社会に対する実践活動なくしては、その価値を失うのです。 密教は、現実を重視し、現実こそ真理がひそむと見るので、社会に対して積極的に慈悲を根本とした活動をするのです。ここに出てくる方便は手段ではなく、社会的な実践活動です。 仏教というのは、出家して俗世と離れることを理想のようにしていると思われがちです。現実世界から離れて、そこで聖なる世界、宗教的な生活をする。仏教の理想は、世俗とは異なると考える人も多いでしょう。 しかし、大乗仏教や密教というのは、俗から離れてはいけないのです。現実に生きているものを対象にするのですから、離れてしまっては対象にできなくなります。俗を断ち切って非俗の世界に生きながら、もう一度俗へ帰ってこないといけないのです。大乗仏教全体がそういう傾向にありますが、密教は極端にこれを強調します。 そして、なんのために真言密教の教えがあるのかといえば、この「三句の法門」に尽きます。

 

《物と心》
「仏教は心の問題を扱う」と云われることが多々ありますが、果たしてそれは正しいのでしょうか。 顕教としての仏教であるなら、それは正しいのかもしれませんが、密教は心だけでなく物も大事に取り扱いますので、心の問題を扱うだけでは不十分ということになります。 仏教では、覚りを得ようと修行するものは、まず初めに四つの誓願(四弘誓願)をたてますが、密教では五大願と、五つの誓願をたてます。 この「四弘誓願」の中に「煩悩無量誓願断」とあります。煩悩は無量であるがすべて断つという意味の誓いです。 一方「五大願」の中に「福智無辺誓願集」とあります。福と智つまり物と心は限りないが集めようという誓いです。 「四弘誓願」と「五大願」では、まるで反対の内容ですが、ここで密教は物と心とどちらに偏ることなく、ともに大切に取り扱うことが記されています。 仏教では「無我無欲」を説きますが、密教では「大我大欲」と説きます。自分自身に対するちっぽけな欲は無くし、世の中のため、すべての生きとし生けるもの、森羅万象のための大きな欲を持つこと、それが「大我大欲」です。 ここでいう福と智を集めるとは、我欲を満たそうと云っているのではありません。ここは注意すべきところです。

 

《恵果和尚の碑文》
師匠である恵果和尚が亡くなった際、弘法大師は選ばれて碑文を記すこととなりました。そこから恵果和尚という人物が、どういう人物であったか読み取れますが、それと同時に、真言密教の徒が果たすべきことが理解できます。 「貧を救うに財を以てし、愚を導くに法を以てす。」 貧しさに苦しむ人に、教えを説いても中々受け入れてもらえるものではない。それよりも、先ずは物質的に必要なものを与えて元気づける必要がある。精神的な渇きがある人には、法を説いて道を示す。 恵果和尚は、物心両面にわたって人々に施していたことが。ここから見て取れます。

 

《虚往実帰》
先ほどの文章には続きがあります。 「財を積まざるを以て心とし、法を慳しまざるを以て 性とす。故に、若しは尊、若しは居卑、虚しく往いて 実ちて帰る。」 釈尊の教えでは、出家僧侶が財産を所有することは許されませんでしたが、大乗仏教では財物に関する考え方が変わってきて、取り決めがいちじるしく緩められました。 だからといって、金銭に対して執着してよいわけではありません。密教では、布施を受けるだけでなく、出家者自身も布施することが説かれるようになりました。 貧しい人に法を説いても現実の苦しさの前になかなか染み込んでいきませんが、恵果和尚のように「財を積まざるを以て心とし」が根底にあれば、「法を慳しまざるを以て性とす」が活躍できる場が生まれてきます。 このように、密教では物と心の両方を大事にするのですから、加持祈祷で祈っておればそれでよい、と云う訳にはいきません。真言密教の教えは「三句の法門」に集約され、方便を究極としていますが、その方便とは、物質的にも精神的にも満たされるようにしむけなければならないということになります。 「虚しく往いて実ちて帰る」、関わった人々が虚しい気持ちで自分の処にやってきて、満たされた気持ちで帰っていくように現実的に対処していく必要があるのです。 私も、真言宗の僧侶ですから、しっかりと社会的な活動をしています。その内容については「社会活動」のページでご覧ください。

 

《活き活きとアクティブに生きる》
近頃は、マインドフルネスと称して、欧米からの逆輸入のような形で、仏教の瞑想がブームになっていますが、彼らは仕事に役立つなどの理由で己のために瞑想をしています。夫々が夫々の方法で幸福になっていってもらえればよいので、マインドフルネスやそれを行う人々を否定するつもりはありませんが、利他の精神が養われないのであれば、またそこを目指さないのであれば、はっきりと明確に、マインドフルネスは仏教、特に密教とは異なると認識しておく必要があります。 もし、あなたが真言密教をしたいのであれば、瞑想に留まっていてはなりません。必ず社会的な活動をする必要があることは、先に述べた通りです。 大日如来の三密の活動と、自分自身の三業とが本質的に同じものであると、このことも先に述べましたが、これは「活動」そのものが尊く、悟りそのものであると考えるからです。つまり「無我無欲」がアクティブになった時、「大我大欲」するのです。 修行法からもそれが見て取れます。通常の瞑想は、傍目にはただじっと坐っているだけです。それに比べ、密教の修法は、手に印契を結び、口に真言を唱え、こころに仏さまを観ずるのですから、修行法自体がアクティブです。日常生活も、僧院に籠っているのではなく社会に関わっていきますから、アクティブです。 はじめは何事も「◯◯しなければならない」からスタートするでしょう。例えば「瞑想しなければならない」と。 しかし、瞑想(三密の行)が進んでくると「◯◯しなければならない」が「◯◯したい」に変化してきます。 「社会的な活動をしなければならない」から「社会的な活動がしたい」になります。 大宇宙目線に切り替わると、望むと望まざるとに関わらず自ずとそうなってしまうのです。自分がこれをしたいという想いが、心の底から涌いて出てくるのです。 アクティブでいなければならないのではなく、自分がやりたくてやりたくてしょうがないことなので、独りでにアクティブになるのです。 時折、「元気ですね」「頑張ってますね」「行動力がありますね」と声をかけられることがありますが、自分がやりたいことをしているだけなので、元気だし、頑張るし、どんどん行動していくにきまっています。 タイトルにある「大宇宙に生きる」とは、活き活きとアクティブに生きることに他なりません